80億分の1人としての、たわいもない日常を記す

デルタの民

patiroma2008-05-07

いったいどこまで増えるのか・・肥沃な大地は多くの人々の命を呑み込み大海へと流れて行った・・
現時点で2万2千人もの人が命を落としたという。さらに4万人が行方不明らしいがそれほどの大災害を引き起こしたサイクロンの猛威には慄然とし、亡くなられた人々のご冥福をただただ祈るばかリだ。しかしこれほどの被害が出た背景には何があるのだろう?もちろんそれほど強力なサイクロンだったことは確かだが、やはり国の貧しさから来る災害時の備えの不備が大きいだろうと思う。たとえば日本ではあたり前のある程度の精度を持った天気予報(例えば台風進路予想など)も無かったろうし、あったとしてもTV、ラジオを持つ人にしか情報は行き渡らない。とどのつまり貧しい者は自分の身の危険を知ることも無く、運良く助かったとしても食糧、水不足に疫病といった2次災害にも見舞われ、さんざ辛酸を嘗めることになるという受け入れ難い現実。人の命の重さや人権は、持つ金の額によって変化するというこの現実。自分は幸運にも金銭的には恵まれた国に生まれ、この悲惨な状況をメシを喰らいながら『かわいそうに・・』などと見て済ますことができる。そんなときいつも感じる違和感のようなもの、それは『なぜ自分はそこにいないんだろう?』という感じ。馬鹿げたことかも知れないが当事者と非当事者との違いが分からなくなることがしばしばある。『自分は今ここにこうしているが、そこに居てもなんら不思議ではなかったのだ・・』という思いは常にあり、ゆえに人ごとではなく反対に言えば『そこにいなくて助かった・・』という思いもどこかに持っている。『明日は我が身』と、そのような報道に接した時は思うが、それも日々の生活に追われ一瞬にして忘れしまう。いや、だからこそ生きてゆけるのだ、となんとなく分かって来たかな。


For The People Of Tibet