80億分の1人としての、たわいもない日常を記す

gap

patiroma2009-04-04

いつものように次女と一緒に買物に出ると、揖斐川の堤防沿いにたくさんの人が歩いている。みなが作業服を着て袋を持って歩いてはいるが、つくし穫りではないようだ。道路沿いに何本か立ててある旗を見ると『クリーンアップ・・』と見えるので皆に呼びかけて一斉にゴミ集めをしているらしい。それにしても堤防の斜面から河川敷に至る広大な面積に隈無く人が見えるので、相当な人手でのゴミ集めだな。
自分も家の前の河川敷のゴミをたまに拾いはするが、やり始めるとゴミ袋2〜3袋分はすぐに集まってしまう。一時的にはゴミ拾いをした部分だけきれいにはなるが、大雨でも降ろうものなら上流から膨大な量のゴミが流れて来て、元の状態かそれ以上にひどい有様になる。いくらきばってゴミを拾おうが、捨てる者あればゴミは尽きず、また拾う者あっても拾う量には限界があり、これはイタチごっこと言うよりすでにイタチに噛み付かれているのでは?と呆然とすることもしばしばだ。この終わりなき闘い?を放擲するのは簡単でも、やはり僕たちはゴミを拾わずには居られず、ここにいる限り永遠とゴミを拾い続けることになるのだろう。それが僕の存在価値の一つでもあろうから。

人々がゴミを拾う姿を見ながらふと思うのだ。いまここに、こういう人々の営みがある。その一方ではロケットが発射されただの、誤報だのとワイワイ騒いでいる。高度に情報化された現代に於いては皆が情報を共有することが必須のように考えられているが、地域限定的に言えばロケットが発射されようが、迎撃しようがしまいがそんなことはどうでもいいことなのだ。人々の日々の生活にはロケットなぞまったく必要なく関係がないことだ。これはもちろん北朝鮮の一般市民にとっても同じこと。なのになぜこんなにワイワイと騒ぎ立てるのか?いっそのこと皆で総スカンを喰らわせればいいんじゃないか?『んなこたぁー、どうでもいいんだよ』とね。
あまりにも今回のロケット騒ぎが普段の生活とかけ離れているので、大きな違和感を感ぜずにはいられない。まるで3流映画のような出来事が現実のことなのだから、かえって恐ろしいのだ。