80億分の1人としての、たわいもない日常を記す

長崎原爆忌

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新型コロナや強行五輪、台風9号の影響で影が薄れた原爆追悼の日ではあるが、広島に続きこの日の持つ意味をもう一度考え、自分はどうすべきかを問うてみた。政府による今回の新型コロナおよびオリンピック対応はある意味大戦中の対応と酷似していると自分も何度か書いて来たが、当時もこんな感じであれよあれよという間に戦争に巻き込まれ、そして広島・長崎という大惨禍を招いてしまった。今回は戦争ではないがオリンピックを強行した結果、デルタ株の爆発的蔓延を招いたという構図は似通っている。太平洋戦争と新型コロナ禍はその被害の規模は違えども両者共通しているのは政治的ミスリードによって被害を拡大させている点だ。時の施政者が聡明であったならば避けられたであろう惨禍によって多くの国民が辛酸を舐め、犠牲を強いられて来た。

 

今は民主主義であり、愚かな政治には選挙で有権者一人ひとりの意思を示す時代だ。同じ惨禍を繰り返さないために一人ひとりにできることをそれぞれが行えば、より良い社会が訪れるはず、そう信じたい。